2020年4月18日
ぼくは現実の表の世界ではあまり語られない裏の世界の話について、読者にお伝えする義務があると思っている。人や生命に関することはもちろんだが、生命が織りなすすべての事象の中で、その表と裏、それらすべてを明らかにすることが何よりも重要だと思う。
片寄った見方はいけないし、両者をみることが生命の本質の理解には欠かせないからだ。
『カルマ』が仏教用語だと思う方もいると思うが、何かを大きく動かすモノ、その根底にある原因因子が『カルマ』というということにすぎない。
問題はその原因因子がどうして作られて行ったのか、ということなのである。
だから裏といっても裏社会のことではない。目に見えない世界、すなわち霊的な世界にまですそ野を広げていくべきだ、ということなのである。
『カルマ』とは要するに、そこで生み出された力(パワー)のことと思えばよい。
この裏の力(パワー)が表の社会に大きな影響力をもたらすのである。裏に引きずられて、表が変化すると思った方がいいのかもしれない。いや、そもそもそれらは極めて緊密に接しているのであるから、影響がある方が自然なのであって、影響を断つこと自体、あり得ないと思ってよいだろう。
この裏の力はときに暴発する。暴発を繰り返すこともある。
当然ながらそれは表に悪影響をもたらす。
マグマ溜まりに溜まった圧力の高い灼熱のマグマが、出口を求めてさまよい、ガスとともに火山から噴出するようなものである。
ある程度集まると、力を持つのだ。
力というものは、溜まれば溜まるほど巨大になればなるほど制御不可能になる。
それが噴出し大噴火となったならば、その火山はもとより、その周囲はどうなるだろうか。
場所によってはすべてが壊滅し、生物はみな死滅してしまうかもしれない。
さて、ここへきて、これまでの話《武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍1~3》を振り返り、読者はどう感じただろうか?
話全体として暗く陰鬱感が漂うし、得体のしれない何かの陰謀論では、とさえ思えるところもある。
読者が嫌になりそっぽを向かれてはもともこもないし、書き手として読者の心理が心配である。
そこで少し、休憩したほうがいいのでは、という気持ちになってきた。
ぼくも一息いれたいと思う。
でもひとこと言っておくが、これは空想なんかじゃない。
思い付きでもないし、架空のことでもない。
そうはいうものの、ぼくにとっては‘真実’だけど、皆さんにとっては少々余計なことだったかもしれない。多少だがそう思っている。あくまでも多少なんだが・・・。
よって今回はすこしだけ、別の話をしたいと思う。
『カルマ』の話は《武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍4》へとつづく。
政治も経済も、人にとっては本当に大切なことだと思う。
物が豊富にあるってことはありがたいことで、生活に役立つものがいっぱいあることはうれしいことだ。
しかしそれが大量に出回っていると、つい、売れ残ったらどうするんだ?
って、心配になってしまうことはないだろうか。
スーパーで積み上げられた大量の野菜があったとして、下の方はきっとしなびているんじゃないかって、思ったことはない?
人がたくさんいると、わざわざ隅っこに居たがる人もいるけれど、なかには気が弱くて隅のほうにたたずみ、誰にも気づかれずに忘れ去られてしまう人。そんな人がいないだろうか?
それって心配じゃないか?
野菜の場合、自らは動くことができないから、そのままだとしなびて売れ残る。
けれど人は自ら動くから、そのままで取り残されること、ほとんどないはずなんだ。
でもね、そんななかでも取り残される人は確実にいる。
気の弱い人なのかもしれないが、そうではなく身体の具合の悪い人や、運命的にそのようになってしまうひともいるのだ。
野菜や植物はしなびたって文句は言わないだろう。
しかし、人はちょっと違っている。
人は‘心’=‘こころ’を持つ存在だからである。
‘心’に実体はない。誰でも思うけれどその実体を示すことは出来ない。
‘心’は臓器ではないし、脳の一部でもない。しかし誰もが持っている。‘心’を否定することは出来ないだろう。心というもの、心という場所。それはものすごく特殊なものなのである。
何が特殊かというと、心は人の霊的な部分の現われだからである。
つまり、裏の世界とのつながりを推し量ることができるところなのである。
このことを知っていると、人を見る目が違ってくる。またそのことが自分自身の人生においてすごく役に立つ場合もある。
生きていることは大変重要で素晴らしいことだ。
だけどそれは我々が‘心’を持つからなんだ。そのようにぼくは思う。
心がなかったら生きている意味を問うこともできない。
その意味で生きているということ、生きていくこと、生き抜くこと。それらと‘心’には、重要な接点があることが分かる。
しかし絶対に忘れてはならないことがある。それは生きている肉体のことである。
生きることは大切なんだけど、それは肉体がなきゃならないってことだ。肉体がなきゃ何もかも全く味わえないってことである。この肉体があってこそ、初めて心は感じることができるということなんだ。
身体(肉体)は‘心’が宿る棲み処にちがいない。
生きている肉体があってはじめて表出されるもの。それが‘心’である。
そこではじめて生きていることをいろいろと味わうようになり、いろんな思いとして心の中にそれらが描かれていく。要するに味わえるようになる。
一方で‘心’は霊的な窓であり、それを垣間見るためには心を利用すればよい、ということになる。
逆の見方もある。
心が霊的な部分、つまり裏世界とつながっているならば、霊的な世界の事象が肉体に影響を及ぼすこともある、ということだ。心が霊的な事象に影響されれば、肉体にも波及する。おわかりだろうか?
そう、そうなのだ。このことは次回の《武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍4》にも書くことになる。
あなたの性格や性質、感情や精神などの、さらにまた奥のほうにある、『人となり』というべき本体(核)は、生まれてから形成されたものではないと考えてよい。
生まれた後の環境が全く影響しないとは言えないが、その本体(核)は、みずからの“魂”の部分からもたらされるのである。魂は時を越えていく。つまり“魂”は霊的な存在だ。
本来の『あなた』はずっと前の前世から続いており、それぞれの生の中で学習し、忍耐や試練を乗り越え、そのときどきの影響を受けとって錬磨したものだともいえる。
そのようにして築かれた“魂”の一端を心は表の世界に表出するのである。どうやって?
身のこなしや笑顔、そして気品と品格としてである。慈しみの気持ちなど、他に対する思いやりなどがそこに現れる。
‘心’は言葉となり、また目の輝きや表情となる。寛容さや残酷さは心の奥にある“魂”の現われである。
根っから優しい人は、やっぱり“魂”のレベルでも優しい人なんだと思う。
前世で辛いことがあって、さらに霊界で悩み苦しんだとき、人は何らかの尊いものを学びとるのだ。
前世で辛いことがあって・・・というのは、そのときがどんなに辛くとも一生懸命に生きましたか、ってことになる。忍耐やどれだけ周囲に思いやりを届けたか、そのことが現世に現れてくる。
絶望の淵に立たされたとき、その人の真価が出てくる。どれほど腹をくくれるか。
どれほど世のため人の為に尽くせるか。
見えない努力をどれくらいやってきたか・・・ということである。
心の問題、心意気の問題、決断力と胆力の問題ともいえる。
いま苦しみの中にいる人は、課題をこなしつつあるのだと思えばいい。
さまざまな困難、それに類する幾つもの試練は人生に常に付きまとう。この世とはそういうものであり、生きにくく、矛盾の多いところなのだ。思い通りにはほとんどいかないだろう。
しかし、それらをこなしていくうちに魂が成長する。それらの嫌なことを乗り越えていくのである。
困難はそのために与えられたものである。
やるしかないと思え!
余談だが、昨今の危機的な現状に絡んで、我々は多くを学び取ろうとしている。この国難を何とか乗り越えたいと思う。それは必ずできる。ただ、今の時点では良しも悪しきもその姿を現している。
人々の立場が問われているのだ。
残念ながら我が国においては、国を預かる者ほどその任に相応しくない傾向がみられる。
その表現力であり、決断力と胆力においてである。表現力というのは魅力のひとつである。
国民の前に立ち、国民を見て、国民の立場に立ってでなければ、全く意味がない。
話を元に戻そう。
多くの人々は前世からの続きで、いくつもの試練が残っている場合が多いという。
それを乗り越えていく。それらをこなしていくうちに、あなたのレベルは確実に上がるだろう。
今は何としても乗り越えてほしい。その努力してほしいと思う。
長くかかる試練も少なくない。それが現実だ。
けれど、それに恐れず立ち向かうことが『“魂”のレベルを上げる最大の武器』であることを知っていれば、それに耐えたとき、自分がどれだけ成長したかを知ることができるだろう。
そのときになって分かることは、たとえ自分の人生に終わりが来たとしても、それほどつらくはない、ということである。
むしろ、よくやった。良く耐え抜いたと、自分自身を褒めたたえることもできるのである。
最初の方に片隅にたたずむ人のことを話した。
その人も‘心’をもち、悩み苦しんでいるはずである。心が痛み、傷ついているかもしれない。
だからこそ、それらの人を放っておかないことだ。
それを和らげることができるのは、気づいたその人なのである。
《次回は武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍4》