2020年4月22日

第4回 武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍・・・『カルマ』は心を操る

前回《ちょっと一息➀》で‘心’の話をした。誰もが持つ‘心’が、霊的な世界に繋がっているということだ。それは“魂”に通じている。

今回はそれと大いに関連するのであるが、『カルマ』の特徴、特に『破滅のカルマ』の最大の特徴といえるものが、実は我々に与える心理的負荷、要するに‘心’に対する作用、ということなのである。

『カルマ』は‘心’に強い影響を及ぼすのだ。

ここでしっかりと認識しておいてほしいことがある。

歴史が繰り返されていることを。

それは間違いない。嫌なことかもしれないけれど、それは歴史的事実であり現実におこったことなのである。実際に、戦争というひどい惨禍はあった。ひどい疫病が流行したこともあった。飢饉もあったし、独裁者により破滅的な惨状に陥った国もあった。

いずれも事実であり、歴史の中でわれわれの先祖が経験してきたことであり、命を張って守り抜こうとしてきたことでもある。

戦後生まれの日本人は、幸いにもその悲惨さを経験することなく生きてこられただけなのだ。そんなことが身近にあったなんて、歴史の上でしか確認のしようがないし、現実に身をもって体験もしていないので実感はない。今の危機的状況をうまくコントロールできない理由でもある。

確かに歴史の中に、埋もれてしまったことなのかもしれない。

しかし、それらはぼくたちにとってかなり重大で強烈なものである。我々の存在は、少なくともその当時の人々の犠牲の上に成り立っているといっても過言ではない。

誰もが、平和な世界を望んでいた。当時だってそうだった。

しかし実際はそうならなかった。大変な犠牲を払ったのち、ようやくそれは終息をむかえたのだ。

戦争だってそうだし、インフルエンザのパンデミックだってそうだった。

では、『カルマ』はどうやってそれらを引き起こしたのだろうか。

『カルマ』が心理的に影響を与えると述べた。それはどういう意味なのか?

それは抑圧的意識といえるものである。

『カルマ』が人の心にある一定のマイナスの作用を起こすよう仕掛ける。われわれはそれに乗せられてしまい、行動を仕向けられるのである。

なぜか?

以前、『カルマ』についてこう述べた。

「死んでも死にきれない何か」である。またそれは「とてつもない執着心であり、憎悪であり、恨みの心、復讐心である」、と。

復讐が起こるのだ。

それこそ『カルマ』の思うつぼに、である。

というのはカルマの仕掛けに乗せられてしまうと、自分たちが不利になるような行動へと仕向けられる、ということである。人の‘心’はもてあそばれ、操られるということだ。

『カルマ』の仕掛け、それは‘悩乱’を引き起こすことである。

悩乱とは心の混乱のことである。

最初は不安である。疑心暗鬼ということもある。ひとの心と脳に働きかけ、‘悩乱’を起こす。

『カルマ』は、事が大掛かりになるような混乱をぼくたちの‘心’に起こすよう働きかける。

不安やパニック、そして鬱のように。

病的になるまであらゆるマイナスの影響を与えるのだ。

ところで『カルマ』が発現する場合、その多くは人の心に作用する。もちろん地震や津波など自然災害として、人的被害をもたらすこともある。この場合でも人の心は傷つくことに変わりはない。

なぜかというと、心ほど誘導しやすく、コントロールしやすいものはないからだ。

霊的な世界から心に触れることのできる『カルマ』にとって、深層心理を操作するなど赤子の手をひねるようなものであり、最も得意とするところである。『カルマ』が地底からゾンビを甦らせることなどは決してないのであって、ただ人の心を何とかすれば済むところなのだ。

それほどの力を使わずとも、人の心にちょっとした不安や猜疑心、慌てさせる何かをもたらせばそれだけで事足りるのだ。

自然災害的であれ、人為的災害であれ、ありもしない恐怖を与え、不安をあおる。

先ず、不安や恐怖が先行する。いや、『カルマ』がそれを先行させるのだ。

『カルマ』が納得するまでそれは続くだろう。

独裁政治など人為的災害の場合、最初はその非人道性に気づかないことが多い。ある種のイデオロギーは人々にとって最も理想的に見える。共産主義はその典型である。

『カルマ』は人を通じて、特に中心となる人物の心を支配し、過大で誇大なイメージを植え付け、周囲の人々を極度に煽(あお)るのである。

‘悩乱’という言葉通り、まさしく心を乱し、荒らし、ダメージを与え徐々に洗脳していくのだ。

そのあと、あらぬ方向へと人々に行動を促す。

現在進行している武漢ウイルスのパンデミックの惨状を見るがいい。人々の慌てぶりをみるがいい。

まさにそのとおりではないか。

先ず、未知のウイルス感染を蔓延させる。

新型コロナウイルスである武漢ウイルスが真に自然発生したものか、あるいは人為的操作が加わったものなのかは今後明らかになるであろう。

しかし『カルマ』にとって、そのことはどうでもよいのだ。

結果として、世界的流行となって武漢ウイルスが猛威を振るい大混乱に陥しめていることに間違いはなく、それ自体『カルマ』の思うつぼである。人々の恐怖とパニックはいかばかりだろうか。

ウイルスに罹患する恐怖、食料や日用品、マスクや消毒剤を求めて争う姿は‘復讐’を望む『カルマ』にとって溜飲が下がる思いにちがいない。

多くの人々が感染し、重い病状となる方も出てさらに混乱は増す。

まさに前回の『スペイン風邪』と重なるのである。『スペイン風邪』は第二派、第三派の流行があった。あとの方がひどかったと言われている。

『カルマ』が引き金を引き、『カルマ』がその存在を誇示しているかのようである。

『カルマ』は人々に復讐をおこなっているともいえる。このことで、いくぶんでもガス抜きされ、いずれ穏やかに鎮静化することを期待したいのだが。

日常のごくありふれた普通の生活が、こんなに脆く崩れるなんて・・・。

みながそう思ったに違いない。

見聞きする報道のほとんどがコロナウイルスについてであるし、メディアは世界中で起きている悲惨な現実を語り、我が国の対策が不十分だという不平不満が聞こえてくる。コメンテーターからは煽りのような発言がある。だとすれば、『カルマ』にとって最大の貢献に違いない。これもまた『カルマ』がコントロールしているものなのだが。

人々が家の中に閉じこもり、その期間が長ければ長いほどこの社会は衰退していくにちがいない。

人々は行動を抑制せざるを得なかった。

社会に不安と恐怖を与え、コロナ鬱やコロナパニック、コロナ不況など、今後も出てくるであろう多くの負の産物。これはいったい何を意味しているのだろうか。

このことが実はこのコロナウイルス禍の本質なのだと思う。

人々の不安、社会の不安定化。

病気に対する不安、生活や社会、そして将来に対する言いようのない不安である。

われわれ日本人は台風や地震は幾度も経験しているけれど、目に見えないウイルスの大流行(パンデミック)は100年前の『スペイン風邪』を最後に経験がない。

先の見えない不安が、人々をさらに緊張させ、怖がらせ、不安をあおり、身体だけでなく社会をこわばらせている。誰もがその窮屈さに心を病み伸びやかさを失っている。

もっともやりきれない時期である。

これは一つの油断からきたといえる。

SARSだってMERSだってあったのだから、今回の武漢ウイルスがあり得ることは予測可能だったのかもしれない。もちろん結果論でしかないけれど。

さて前々回の最後に、中国の台頭、と書いた。

この度のウイルス禍が自然発生的なものか、それとも中国の陰謀によるものかどうか。それは歴史が証明してくれるにちがいない。

なぜ中国の台頭なのか。

中国がいまも、そして今後も数々の動乱の中に躍り出てくるからである。『カルマ』の見方をすれば、その中心が中国であっても少しもおかしくないからだ。それはざっくりといえば、中国共産党(以下、中共)建国以来の非業の死を遂げた者の数による。

もちろんそれは中国の国民の数であり、チベットやウイグルなど周辺国への侵略と弾圧による犠牲者を含むものである。

『カルマ』が、「死んでも死にきれない何か」、あるいは「とてつもない執着心であり、憎悪であり、恨みの心、復讐心である」ということであるならば、それが噴出するのにふさわしい場所を必ず見つけるはずである。『破滅のカルマ』ならば、それがどのように大きく広がるか、それにふさわしい状況を見極めるだろう。

そういう意味では、そろそろ危ない時期が巡って来たのであろうか。

20世紀を振り返ってみると大きな戦争は起こるべくして起こったものと言える。そのとき、その場所に起こることが最もふさわしかったのかもしれない。すべてが疑心暗鬼、不信感、差別や強い憎しみから生じたことなのだ。遠くから近くから、外から内から、『カルマ』は個人あるいは集団としての‘心理’につけ込んで、いかに人々を打ちのめそうか、襲いかかろうかと、あらゆる手を用いていたことがわかる。

今後『カルマ』の中心は中国である可能性があると思っている。

彼の国の歴史を知れば、そこのとは自明の理であることが分かるであろう。特に中共は残忍極まりない政権である。もともと共産党とはそういうものである。共産主義がどのような歴史を作り歩んでいるかなどは、ネットを見れば分かることだ。

さて、これまでのコラムの中で、今回の武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍を『カルマ』という視点で考察してみた。‘心’が霊的世界とつながるがゆえに、霊的世界から我々の心を操ることが可能だということだ。

ところで《武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍1》の終わりに、次のように述べた。

『ぼくはしかし、この度のパンデミックをひとつの‘警告’とも考えている。

世界の為政者に、「やれるものならやってみよ」、あるいは、「肝に銘じよ」と強い‘警告’を発したものだと思う。(中略)もうひとつある。それは日本の在り方についてである。』

これについては次回のコラムでお伝えしたい。

武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍は次回で最後になる予定である。

読者よ、もう少しの辛抱である。

《武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍5へつづく》

過去の記事

上部へ戻る