2020年5月20日

第6回1部【希望の章(最終章)】武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍

いよいよ最終章である。

どうしようか迷っていることがある。

結論を先に言うか、後回しにするか。考えると、なかなか複雑である。

こんなに引っ張り回して、またかよ~・・・と思われるかもしれない。

 

読者の健康のためには少しでも単純、明快の方が好まれるかもしれない。

では、小出しに書くのはどうだろう。

四の五の言わずにとっとと言え!といわれそうである。

まあまあ落ち着いていただきたい。

ちなみに最終章は二部に分かれる。ご了承願いたい。今回は第1部である。

 

さて、『カルマ』がもたらした災いは歴史上無数にあった。その都度、人類はそれらの苦難に耐え抜いてきた。しかし、完全に乗り越えられたかといえば、ほとんどは無理であったと推察する。

さらに昔から言えば、ある一定の地域を除いて、大量死というのは自然災害を除いてはあり得なかった。

 

もちろん自然災害での死というのはある程度予測のつくことであり、死後の魂は「残念だ・・・」、という無念さが主になり、戦乱のような人為的災禍に比べると、恨みや憎しみ、すなわち復讐に燃える強烈な『カルマ』を残すということは少ないのではないかと思われる。

しかし今日では、科学の発達とともに、『カルマ』がもたらす人為的災禍の危険度は上昇し、その破壊度は壊滅的で破滅的である。

 

科学が全てを解決してくれるという幻想は持たない方が良い。科学は人にとって万能ではない。

いっておくが、科学そのものに罪はないのである。それを扱う人に問題があるのだ。

人は科学を正しく扱うことさえできてない。

要するに、人は科学の発達についていけないモノなのである。

なぜだろう?

 

有史以来、いや、類人猿からほんのちょっぴりと進化しただけの人類は、その本質として少しも変わってない。欲望や本能、そして感情をコントロールできないからである。

科学の発展は、人類の共益、すなわち利便性を追求するが、それは人々がよりよい生活や豊かさを等しく享受できる社会づくりに寄与するものでなければならない。人々が安定した平穏な暮らしをするために用いるべきものである。一部の人々の欲望のためにあるものではない。

 

ごく普通の一般人はそのように思っているはずである。

だからこそ、基礎的な分野での論理を基にした発見や発明、たとえそれが地味なものでも人類に貢献した証としてノーベル賞などの誰もが称賛すべき偉大な賞と栄誉をもたらされるのである。

それは理性と知性の勝利ともいえる。

 

ところが、人の感情や欲望は必ずしもそうではない。だから結果として、イザコザが絶えずイサカイが絶えず、争いが起こり、憎しみ合い、傷つけ合うことになる。

それって動物とどこが違うのだろう。動物でも縄張り争い、食餌の争奪、メス獲得争いなどが本能的におこなわれているのはご承知のとおりである。

それらの点で人は動物よりも上である、ということが果たしていえるかどうか、これまでの歴史をみるとはなはだ疑問なのである。

 

もちろんすべての欲望を削いでしまったら人類に未来はない。通常の生活でさえできなくなってしまう。だから、せめて人間らしくあってほしいと思うのである。

一方、人も所詮は動物であるから、仕方ないじゃん、と言い切る向きもある。そりゃそうだ、ともいえるのだが、その結果は悲惨である。

無数の『カルマ』は溜まりに溜まってしまい、いまや爆発寸前である。

 

前回までに述べてきたことで、『カルマ』がもたらす災いの結果、さらにまたその反作用による反復が起こっていることも、その連鎖が続くことでさらに人々が傷つき、社会が壊れていくことも読者の方々はすでに理解されていると思う。

逆にこの世界でいろんな災害が起きたとき、そこには『カルマ』が存在すると思ってもよい。

 

さて、今回は希望について述べなければならない。

諸外国では、今回の武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍で、我が国の感染の在り様をジャパンミラクルといっているそうだ。諸外国はコロナの現状を我が国と比べ、日本がなぜこれほどまでにうまくコントロールしているか不思議だという。ぼくらもまたそう思わなくもない。

 

しかし我が国にいていまの現状をみていると、何ら良い成果が感じられないのはどうしてだろう。幸いにして発症者や死亡者数は外国に比べると少ないものの、日本政府のアホさ加減にはうんざりしてしまい、経済にまで大きく波及してしまったコロナ禍に強い憤りをおぼえてしまうのだが。

 

しかしどうしてなんだろう。ジャパンミラクルなんて言葉は別にどうでもいいとして、今回の武漢ウイルス・新型コロナウイルスは、なぜ我が国だけ特別扱いしたのだろうか。あなたはそう思わないか?

この、「なぜ日本だけ?」を考えていくと、いろんなことが分かってくる。

だから、特にこの章は重要である。

 

ぼくが思うに、日本は特に特別扱いされているような気がしてならないのだ。このパンデミックだけに関しては。ではいったい「誰に?」・・・・・・。と思われるだろう。

答えは「誰かに」、である。

「ほんまかいな~?」と思われるかもしれない。

無理はない・・・。

 

がしかし、我が国は奇跡の国なのである。それは間違いない。それが希望の第一番目である。

であるが、その上にあぐらをかいてはならない。全てに責任を取らない、人任せが一番よくないのだ。

誰に対して言っているのかといえば、日本政府である。

 

この度の武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍は確かに『破滅のカルマ』である。全地球規模で広がり多くの人命を奪っている。終息はいまだ見えてこないし、この先、経済不況が待っている。

問題は特に我が国である。

 

政府が大胆な経済政策を行わなければ我が国は立ち行かなくなり、病気で死ぬよりも経済的難儀で亡くなる人の方が多くなる。そして人々の収入は確実に減るだろう。財務省主導が破滅をもたらしているといわれる。それはまさに『カルマ』ともいえるのかもしれない。

ひょっとしたら、我が国はウイルスよりも政府と財務省のために多くの死者を出すことになるかもしれないのだ。話がより複雑になってきたが、これも現象の一つとしてとらえるべきではないだろうか。

 

『スペイン風邪』のあとに『世界恐慌』に陥っていること、そのために全体主義が広まったことに注意してほしい。しかし今回はその当時よりも複雑である。『スペイン風邪』も『大恐慌』は歴史で学ぶことができるからだ。未来に対する予測は難しい。

 

ぼくは、日本はこのパンデミックが小難になっていると感じている。大難から小難である。

なぜかはご想像にお任せするとして、しかし、その後の手の打ち方を失敗すれば、『カルマ』は戻ってくるかもしれないのだ。では、なにをどうすればいいのだろうか?

日本をダメにするすべての要素を取り払うことである。

したがって希望をもたらすためには、そのダメ要素を消していくことなのであり、それはぼくらの努力にかかっていると言わざるを得ない。

 

武漢ウイルス・新型コロナウイルスが『破滅のカルマ』によるものならば、我が日本国はもとより、世界人類の存亡に大きく関わる問題となる。しかも『カルマ』は依然として強大な力を温存している。

しかし、今回のパンデミックは世界大戦のような激烈さはまだないと思っていい。物理的に世界が破壊されているわけではないからであり、その点でいえば“軽い”のかもしれない。

 

心配する大きな『破滅のカルマ』の始まりかもしれない。だから‘序章’なのであり、‘警告’と感じるのだ。大袈裟なことといわれるかもしれない。でも、『カルマ』からみれば、怨念や憎しみは増すことはあっても減ることはない。それは世界を見ると分かるはずである。

 

そして、ぼくらがいま経験しているのは未曽有の世界的パンデミックである。もちろん1918年に始まった『スペイン風邪』も経験しているが、実体験したという意味においては、こんなに激しく厳しいものだとは想像できなかったことだろう。‘序章’や‘警告’にもかかわらず、である。

世界同時感染テロといってもいいくらいだ。

 

しかし、今回のパンデミックの結果をみたとき、『カルマ』は満足したといえるだろうか?

そのことが非常に気がかりである。初めからこの程度のものか?

それとも‘序章’、‘警告’に過ぎず、本体は後からやって来るのだろうか?

最悪のケースはもちろん後からやって来る方である。手段は何であれ、『カルマ』は結果を狙っている。どんな手を使おうが、結果が重大であるならば『カルマ』は喜んでその手法に乗るだろう。

 

超大国アメリカでさえ、どうにもならない現実を突きつけられるほどの‘目に見えない相手’である。危機意識や危機管理などに精通し、日ごろから注意していたとしても、今回のパンデミックは手探りでやり抜くしか方法がなかったろうと思う。未知の部分があまりにも大きかったせいである。

不意に、無差別的に来襲されると、どの国もほとんど全くといっていいほど対応ができないことがわかった。人の住む世界はあまりにも脆弱なのである。

 

今回の感染がどのレベルのものか、自然発生か人為的流出か、本当のところはまだ分かっていない。検証はこれからおこなわれるであろう。

そして、この経験は人類を新しい方向へ変えていく可能性が高いともいえる。それはいろんな意味を含む。何が変わっていくのか、どう変わらざるを得ないか。その見定めが必要だ。世界は新しいステージへと移行していく可能性がある。これは希望へとつながるだろう。

 

パンデミックが一度で終わらず第二波、第三波と押し寄せる可能性があり、人類はその対処に苦慮するかもしれない。

しかし我われは生き抜く必要がある。何があったとしても、人類は生き残らなければならない。そのためには世界が協調し協力することである。

 

誰もがこの危機に乗じて優位に立とうなど思ってはならない。

騙してはならないし、奢ってもいけない。さげすんでもならない。あなどってもならない。人の足元を見てはならぬ。弱みに付け込むなど最低の者のすることである。

そのような者たちは品格も人格も、霊格でさえ最低レベルである。

 

日本は民度の高い国民が住む国である。日本とはそういう国である。

我が国には歴史も文化もあり、民族としての誇りも、生き方もこわだりも伝統も、磨き抜かれた魂もある。しかし実はそれだけではない。

気づいている方は少ないかもしれないが、我われの内には清き流れがある。

 

それは祖先から受け継いだものであり、研ぎ澄まされた生命の流れである。

それは遠い過去からつづく確固とした強き霊性のつながりである。最近は顧みられることもなくなったが、その強き意志を確認せよという、そのような霊波動が舞い降りているような気がしてならない。

 

すなわち、霊性を高めねばならぬということだ。波動を高め崇高にしていくことだと思えばよい。個々の人格はもちろん、国家としての品格も高めていくことだ。人類の叡智はそのためにある。

さて、この章でいくつものことをお伝えしなければならない。

実は、うまく伝わるか非常に心配している。

 

希望とはなにか。それは救済であり、その方法である。

『カルマ』による災難、『破滅のカルマ』による破壊を小さくする方法である。

ダメージを無かったことにするのは難しいだろう。しかし前述したように、大難を小難にすることは可能である。そのために何を為すべきだろうか。ぼくたちは分岐点に立たされているといってもよい。

 

果たすべきは果たし、忍耐が必要なときは耐え抜いて、果敢に達成すべきは全力で挑み達成し、成し遂げなければならないことがあるならば勇をもってやり遂げよ。ということである。

全ては努力精進の結果であり、そのためには団結や協調が必要である。事に当たって共によく協力し乗り越えていくのである。つまり、我われの心がけ次第である。心至誠にて本分を尽くし生き抜くことである。

 

付け加えるならば、‘義を尽くす’ことである。

“義”とは、誠実で真摯な正しい道のことである。義を尽くすとは、人々や社会に対して欲得を捨てて行動することである。つまりそこには、心に至誠がなくてはならぬ、ということになる。

考え方としては、例えば「お天道様に申し訳が立つか?」みたいな行動規範のようなものと思えばいいのかもしれない。あまりたいそれたことではないが、我われ庶民の生き方としては、その程度の思いに基づけばよいと思われる。

 

前述の「成し遂げなければならないことがあるならば、勇をもってやり遂げよ」というのは、『義を見てせざるは勇無きなり』という論語の一節と同じように考えればよい。幸いにも我が国には武士道がある。

やらねばならぬことならば、潔くやりぬくことである。自分の心に恥じることなく生きることこそ肝要である。

自らを顧みて偽りなく慎ましやかなこと。そのような姿勢は『カルマ』が最も嫌うものである。

 

『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり』

幕末維新の雄、西郷隆盛が江戸城無血開城の道を開いた山岡鉄舟に対して言わしめた言葉である。是非ネットで検索していただきたい。西郷も山岡も本当にすごい人はいたのだなぁ、とつくづく感心してしまう。維新には、そのような義に厚く、勇をもって行動する方々が大勢おられたと拝察する。

惚れ惚れとする日本人の姿である。

 

ただ残念なのは西郷隆盛らが賊軍として朝敵となり、未だに靖国神社に祀られてないことである。

はっきりいってまったくもっておかしいと思う。絶対に間違っている。

この点、靖国神社は改めて頂きたいと心から思う。当時の人はみな国を思い、故郷を思って行動したことである。靖国神社がこれらの朝敵とみなされた人々を救ってくださるなら、それを糸口として幕末維新のすべての怨恨、『カルマ』が解きほぐされることとなるであろう。

 

おわかりであろうか。『カルマ』の解消法のひとつである。

結果として『カルマ』の存在理由を解いていくのだ。それにより圧力を弱めていくことができる。

『カルマ』の存在理由として、因果の法則があったことを思い出してほしい。因果とは、原因と結果である。原因があって縁が生じると結果になっていく、ということだ。このことについては後半で詳しく言おう。

 

日本人は先祖を大切にするが、他にも先祖を敬う民族は多い。個人的にもそうだが、とくに大義ある戦いにおいて亡くなった方々にはその勇敢な行動に対する顕彰が必要なのである。

戦いが終わった後には敵味方なく許し合う事は本当に必要だ。勇猛さをたたえ、敵味方を越えていくのである。特に内戦の場合、そうでなくてはまとまるものもまとまらないだろう。それに、我が国は大きな戦争をいくつも体験している。多くの御英霊がいらっしゃる。

 

彼らの尊い犠牲の上に私たちがいることを忘れてはならない。遠い過去のことなどと忘れてはならない。彼らは自己の責任において義を果たしたのである。彼らは自己の命が子孫のためになることを知っていた。ぼくらのために自らの命を捧げたのである。彼らの存在を忘れてはならないのだ。このことは口を酸っぱくして言っておきたい。

 

逆に言えば勇気の‘勇’とは‘義’をもって初めて本来の強さを纏うことができるといえるだろう。

戦前の日本が軍国主義だというレッテルを信じている人がいるとすれば、それはGHQなどが策定した占領政策WGIP(War Guilt Information Program)の結果であることを知る必要がある。それは共産主義者たちにとってこの上なく都合のよいものとなった。日教組や左翼の人々にとってである。

それにより長い間、御英霊は外地に放りっぱなしにされてきた。

 

今この話をするのはWGIPが問題であるというのではなく、ゆがめられた虚像を排して、命をかけて国を守ろうとした人々の実像と在り様を知り、その栄誉を讃えて感謝するという、どこの国でもやっているごく普通の行事を、同じく正式な形で我が国でも行うべきだということである。

もちろん真心を込めて行うことである。

 

そのようなごく普通に必要なことが、なぜ必要だというのだろう。 

結論を言えばそれが『カルマ』の解消に作用する。『カルマ』が納得するのである。国難に際して身を挺して亡くなられた方々に深い哀悼を捧げ感謝するべきであり、特に指導層からのねぎらいや顕彰は死者を納得させるために絶対に必要である。

いまの我が国にはこれが欠けているように思われる。

 

我が国では戦後教育が荒れ果ててしまい、左翼思想が称賛されてきた。

テレビや新聞などのメディアは今でもその影響を強く受けている。我が国の教科書といったら、いったいどこの国のものか分からず、教科書検定も杜撰きわまりない。国の基本を教えないのだ。

ないがしろにされた教育がどのような人々を作り上げただろうか?

 

そのような教育を受けた人々が国の中枢に集まるとき、国はその方向性を見失う。

各省庁、文科省や外務省それに財務省など、国の根幹をなす政策を決定するところが、国の方向を貶め惑わす牙城となっていく。官僚の不祥事をみるがよい。

東大法学部など、最高学府もそのような教授たちによって占められているという。

 

それらを長い目で見れば、時代の一コマに過ぎないのかもしれない。そうであってほしいとも思う。

一刻も早く自分本位の考えから目覚めてほしいと思う。

しかしこれらの傾向(自分たちの利権・利得本位の考え、国益よりも省益などを優先すること)こそ、『カルマ』がささやいた結果ともいえるのだと思う。

 

『カルマ』からみれば、自分たちを放って顧みない国や政府、そして国民に、はたしてどんな感情を抱くであろう? 我われを守ろうという気持ちが起こるであろうか? 

あなたが御英霊だったら、あるいは戦争犠牲者だったらどうだろう?

 

もともと我が国の国体は天皇陛下を中心に形成されていた。天皇陛下は祈りの中心であり、我が国の繁栄と安定、人々の安寧を常に祈る存在である。その根幹ではイザナギ、イザナミなどをはじめ天照大神、素戔嗚大神など神代から守護される尊き神々が我が国を護ってくださっている。

 

その大きな柱のひとつとして天皇のご存在があるのである。

そして今日に至るまで、常に国民の安寧と日本及び世界の平和を願われていらっしゃる。

これを日本国の在り方として、歴史的に“国体”という。単に天皇の存在だけを言うのではない。

天皇を中心とした神々への祈りがあって、天皇陛下が万民の豊かで幸せな生活を祈り続ける。

そのような天皇を中心とした国の在り様である。ここは重要なポイントである。

 

だから、それ自体が軍国主義とは相いれないものであることは明白なのだ。

しかし、そのことさえ戦後教育では否定されつづけてきた。天皇陛下が国の祭司となって、我が国と世界の安定と平和について祈り続けてくださる。

その重要性が分からぬ人々がいるのだが、そこには隠された暗い闇がある。多くの人々はそのことに気づいていない。人々が分からぬところでそれは徐々に進行している。

我が国を弱体化させ、破壊し、乗っ取るという、極めて悪質な陰謀である。

 

それは女性天皇、女系天皇の議論にも表れている。

皇室典範には男系の男子が天皇の皇位を継承すると決められている。歴史的な伝統であり、男女平等に反すると思う人もいるかもしれないが、決してそうではない。その事は特に注意を要する。

男系とは分かりやすく踏み込んだ言い方としては“父系”ということである。父親の系統であればずっと昔まで遡って知ることもできる。

 

このことは女系天皇推進派が言うように、女性を差別することにはならない。

なぜかというと、女性と女系では意味がまったく違うからだ。このへんをごちゃ混ぜにして女系天皇推進派は画策しようとしている。

ご存知の方がいるかもしれないが、女系天皇になったとき、日本国は日本国でなくなる。

その時点で日本という天皇を中心とした国は終わりを告げる。

 

天皇家そのものがそこで終わりを告げるからである。

まったく新しい王朝がスタートするからだ。

男系とはすなわち父系である。しかし女系とは、その夫との子供が天皇を代々継ぐということである。

すなわち、夫の家系の王朝がそこからはじまるのだ。

 

女性天皇は女系天皇とは全く異なる。

女性天皇は歴代上に108(2人の天皇は名を変えて重複している)存在する。だから珍しいことでもない。しかし、その方々はいずれも男系(父系)の血を受け継いでいる。

すなわち女性天皇は父系の血をもつのである。そして、女性天皇が男系の男子と結婚すれば、子供はやはり父系になりうる。男系はそのようにして維持されてきた。

 

もし内親王が女性天皇になるとしよう。

仮に中共の習近平氏に息子がいて、その内親王と結婚しようとしたとする。もちろん政略結婚であるが、内親王が女性天皇になり、子を産み、その人が次の天皇になったとする。

それは天皇家だといえるだろうか?ということである。

これは決して架空の話ではない。起こりうるのである。

 

それによって日本古来の天皇家は終焉を迎える。

2千年以上の歴史や伝統はそこで止まる。第126代で天皇は途絶えてしまう。

そして習家という王朝がそこから始まることになる。

習王朝の始まりである。

 

新聞やテレビはそれを語らない。そんなことを国民には教えたくない。

教えると日本の乗っ取りができなくなるからだ。誰がそんなことを画策するのか。

天皇陛下がいなくなったとき、誰が一番得をするのか。そのとき起こることは、日本の弱体化である。

誰がそれを最も望むだろう?

 

既存の新聞やテレビがどれほど中共に食い込まれているかを御存じなければ、こんなことを言っても荒唐無稽の話として終わってしまうだろう。工作活動はいろんな形で巧妙に行われる。

もちろん多くの国民もそのことを御存じない。だから女系天皇も女性天皇も同じであると考える。

あなたはそれを望むだろうか。

習王朝を望むだろうか?

 

しかし実際にそれを望む勢力が国内にも存在する。日本人であり、それは外国勢力の影響を受けている。

金を握らされているか、弱みを握られている可能性もある。

我が国の弱体化のためには何でもする連中である。ハニトラに陥った官僚や政治家は後を絶たないとも言われる。どの政党にそれが多いかは一目瞭然かもしれない。特に中国はヤバイ国だと思わなければならない。

 

我が国は狙われているのだ。そのことをもっと肝に銘じるべきである。

我が国にはスパイ防止法もない。工作活動を規制する法律はほとんどない。工作員も野放しである。

すべてにおいて日本は甘すぎると言わざるを得ない。それはこのたびのコロナに関してもいえることなのだ。

 

天皇が男系(父系)の男子をつらぬいてきた理由は、神代からの伝統であるには違いないが、幸いなことにそれによって天皇の皇位を政争の具にできないという利点もあった。

すなわち藤原家や足利家、織田家などがもし日本の全てを乗っ取りたかったなら、天皇を排して自らが天皇になればよかったはずである。しかし誰もそうしなかった。

それではせいぜい日本の国王どまりであって、決して天皇とはいえなかったからだ。

 

歴史がそれを許さなかったともいえるが、第一に神々がお許しにならなかったはずである。

実力者たちにはそれが分かっていた。そこで自らがその地位になることはあきらめ、天皇に自分の娘を嫁がせて縁戚関係となることをもくろんだ。自分の孫が天皇になる可能性があるからだ。

藤原氏はその典型である。

我が国の国体とはそういうものであり、このことは現在においても変わりない。

非常に深い意味を持つのだ。

 

しかし、いま女系天皇を積極的に推し進めようとする者どもがいる。新聞や週刊誌にもそれを推進する内容の記事がある。彼らは国民の天皇制に関する知識不足を逆手にとり、扇動するのである。

なぜ愛子内親王が天皇になれないのかと。女性差別だと。

女系天皇推進論が登場してきたのは小泉政権の時であり、まだ秋篠宮家に悠仁様がお生まれになる前の話であった。

 

女系天皇推進の立場をとるのは、天皇制を排したい者たちである。

顔触れは政治でいえば与党よりも野党に多く、朝日毎日をはじめマスメディアにも多い。おどろくべきことに宮内庁関係者の中にもいるという。

要するに我が国の国体を壊すということが最終目的である。そのために工作活動をして動き回る者がいるということだ。ホントかなあ・・・と、思われるかもしれない。おどろおどろしい話だからである。

 

がしかし、このことが『カルマ』とどう関わってくるというのか、その辺のことが分からなければ、ただの陳腐な陰謀話になり果ててしまう。

これまでの話は余談のようで余談ではなく、脱線のようで脱線などしていないのであるから、安心していただきたい。

 

さて、ここからいよいよ希望の本題に入る。

 

《武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍6・・・希望の章・第2部へ続く》

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