2020年6月2日

第6回2部【希望の章】武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍

希望の章(最終章)である。

長くなるのでさらに分けて発表したいと思う。ご容赦願いたい。

ここまで『カルマ』の視点で現在進行中の危機を論じてきた。

『カルマ』とは端的に言えば死者の存念である。前述したとおり、それは「死んでも死にきれない何か」であり「とてつもない執着心であり、憎悪であり、恨みの心、復讐心である」といえるだろう。

しかし、ひとくちに『カルマ』といっても、その成り立ちは複雑である。

 

人には魂があり、輪廻転生を繰り返す。

ほとんどの人はそれぞれの運命の通りに生きている。そのため人生の軌道はある程度決まっているといえる。人の運命は、運命の因子(以下、因縁という)によって定められている。因縁の種類は多く、それぞれの因縁はその特徴に沿った縁を生じやすい。因縁があってそれにふさわしい縁が出会うとある方向(結果)へと誘っていく。

 

その結果どうなるかというと、運命(因縁)に関わる誰か、あるいは運命(因縁)に関わる特定の事象に出会うことになる。それが良きものか、悪しきものかはその因縁によって決まるのである。

もしも因縁が悪いものであった場合、当然ながら結果はいいはずはない。最悪の場合、悲惨なものとなるだろう。

 

人の最期の時に、容易に拭い去れない痛みや苦痛、後悔や悔しさ、そして怨恨を伴う場合、肉体を失った魂はさっさとその場を立ち去ってあの世に行くことが出来るだろうか。そのときの感情や無念さは肉体と共に消滅するだろうか?

 

実は、個々の『カルマ』には生じた理由がある。

それは生きているときに起こった事がらに原因があるのだ。たいていは、そのために行くべきところに行けないでいる。つまり、この世とあの世の中間に残ることが多いといわれる。

 

何年も何年も、あるいは何百年も、あるいはそれ以上の間、それは残り続ける。

なんという長さであろうか。同じ思い、同じ感情を持ち続けひたすらそのために残るのだ。

それはもちとん、その者のもつ因縁によって生じた結果である。それはそうかもしれないが、その者にどんな責任があったのか、どれほど辛いことがあったかなど、もしもつぶさに知ることができたならばどうだろう。それが分かればその者に同情を寄せる余地が生まれるかもしれないし、苦しみを分かり合えることだってあるだろう。

 

しかしぼくたちはそれを容易にくみ取る手立てもないし能力もない。

時は流れ、時代は移っても『カルマ』が生じたその理由から、その者の傷は癒えないままだ。

その間、ずっと浮かばれず、その思いにとらわれ続けて、その者はそこに残っているのだ。

どの思いにとらわれているのかといえば、死ぬ間際の心の在り様にである。

 

さて、話を武漢ウイルス・新型コロナウイルスのパンデミックに戻そう。

今回のパンデミックは人災の側面があると言われている。そうであれば人の悪の側面が引き起こしたともいえるのかもしれない。中国共産党は何らかの形でウイルスの発生を隠したと考えられている。

しかし、『カルマ』がそこにつけ込んできた可能性があることもお分かりいただけると思う。そのことをしっかりと認識せねばなるまい。

それを思えば『カルマ』がいかに強烈で不気味な存在か、改めて思い知ることとなるだろう。

 

このパンデミックは何を意味しているのだろう。

ぼくが危惧するのは既存の世界の崩壊である。世界は壊れかけているのではないかという恐怖だ。

あれこれとリアルに考えると、迫りくる恐怖に胸が締め付けられそうになる。

なぜなら『カルマ』の側から見たとき、現代人は『カルマ』を解消しようなんてことをほとんど考えてないことがよく分かるからである。

 

さらに自由や人権、そして民主主義と相対する全体主義勢力との力関係はヘゲモニー(覇権)を巡って対立を深め、我が国周辺でも抜き差しならぬアンバランスさが日を追うごとに高まってきているからである。わが国はどちら側に立つべきだろうか?腰の引けた者たちに何ができるだろうか。

はっきり言えば、わが国の政権内部にも官僚組織の中にも深刻な対立がある。好きでもないパンダを抱かされて喜びもしないくせに、いい顔だけは北京に向ける国会議員たちとそれに類する輩が大勢いるからだ。

 

話を元に戻すと・・・。

結局『カルマ』を解消してこそ希望がそこに見出せると思うのだ。そのためには『カルマ』をもっとよく知ることだ。『カルマ』という負の遺産も、最初から負の『カルマ』だったわけではない。

 

この世の『カルマ』を作り出したもの、それはごく普通の人びとであった。

先にも述べたように、いろんな原因があって、その者たちは結果として傷つけられた。歴史の中で積み重ねられた負の遺産なのである。

しかし、これを解消するといっても、本当にできるのかという疑問を持つ方は多いと思う。ぼくたちの人生という限られた時間の中で、歴史という壁を乗り越えられるのだろうか。

 

その希望はわが国にある。ぼくはそう思っている。

要は、『わが国を弱体化させないこと』である。それに尽きるといっても過言ではない。

また「弱体させない」とは、今のままで維持するということでもない。

更なる防御はどうしても必要になる。いつなんどき強烈な敵が現れないとも限らないからである。

 

わが国を守ることによって、日本も、そして世界も救われるとぼくは確信する。

日本は世界にとって要の国である。世界が分離することなく、まとめる役割を果たす“要”だ。

とても重要な国である。

 

なぜそう言い切れるか。

日本にだけあって世界に無いものがあるからだ。

それを話していこうと思う。だがその前にひと言申し上げたい。

 

ぼくは‘真実’を知りたいと思っている。

それは類いまれな美しき神秘の星である母なる惑星“地球”の真実であり、そこに生きる命が存在する本当の意味であり、神々がおられるわが国の真の姿である。

 

ぼくはこの国に生まれたことを誇りに思うし、この国を愛してくれるすべての人に心から感謝したいと思っている。もちろんそれは国籍、民族、人種など一切関係ない。

そして、心に偽りなく、誠を尽くして暮らしていきたいと思う。

感謝を込めて全ての尊き存在に祈りたいし、笑みを絶やさず、おおらかに歌い、腹から笑って、感動して泣きたいと思う。悲しみに寄り添い、痛みを緩和し、安堵を願い、安らぎの中で生きたいと思う。

 

人を生かし、人をはぐくみ、人に習い、人に享く。

豊かな人生がそこにある。

ともに笑い、ともに泣く。風雪に耐えて、困難を乗り越えていく。

生きとし生けるすべてのものに心を寄せて、励ましあう。

なんて幸せな人生なんだろう・・・と。

 

いにしえより神々の里であり、神々の住む清らかで聖なる祖国を守らなければならない。

希望の明かりを高々と揚げよ!

我らとともに真っ直ぐに、前を向いて堂々と歩んでいこうではないか。

さあ、ぼくらの続きを始めよう。希望のすべを語っていこう。

 

阪神淡路大震災と東日本大震災を思い出してほしい。

そのとき日本が・・・、そして世界が驚き、深く心を痛めた。

日本はどうなるのだろう。みながそう思った。

 

大勢の方が亡くなり、傷ついてしまった。悲しみと苦しみは言葉では言い表すことができないものだ。

なんという国難だろうか。

だが、この二つの国難が起こったとき、ぼくはあることに気づいた。

おわかりだろうか?

 

『わが国の弱体化』である。

それがはっきりと事実として表れていたのだ。もちろん客観的にみればそんなことは事実ではないと思われるかもしれない。だが、ぼくの中では違っていた。

大震災が起こるまでは、恥ずかしながらそのことに気付かなかった。

大震災が起こってはじめてその在り様に気づいたのだ。それは国としての在り様であった。

 

そのとき日本は「弱体化」していた。

だからこそ、結果として大地震という『破滅のカルマ』が現れたといえる。

では、なぜ「弱体化」したのか? どうして「弱体化」といえるのか。

これから先は、ぼくの推論である。ぼくの責任において語るものである。

 

 

この二つの大震災のときに、日本の中心にいたのは誰だったろうか。

すなわち政治の中心、政権の中枢にいたのは誰だったろうか。

もちろん天皇陛下はいらした。陛下はどんなときも国の象徴として国民と共にあらせられる。

ぼくが言っているのは政治的な中心、政権担当者のことである。

そのときのわが国の政治を実際に動かす中心、すなわち内閣総理大臣である。

 

そのとき、日本のかじ取りをおこなう政権中枢には、左翼・リベラル系の首相がいた。

村山政権の村山富市首相と民主党政権の菅直人首相。

前者は社会党が母体であり後者は民主党が母体である。

「それが原因だって?考えすぎではないのか・・・」。誰しもがそう思われるだろう。

 

わが国は神国である。本当の意味でも神国である。

しかも天皇陛下を中心とした国である。

神仏のことが良く伝わらない方々には、このように言っても理解はなかなか難しいだろう。

神仏などいないと思っていらっしゃるなら、なおさら分からなくても仕方ないかもしれない。そのような方々には『カルマ』も空想上のものでしかない。

しかし天皇はもともと、神々と深くつながっている存在である。

 

はっきりと言っておきたいのは左翼だからとか、リベラルだからそれが政権を担ってはいけない、と言っているのではない。左右の違いなど一切関係ない。

日本の在り方や日本の基礎をどのようにとらえていたか、ということを重視するのである。

 

日本のトップである政府と政権の意思を問うのである。

何の意思か?

天皇陛下を頂く日本をどのように認識していたか、ということだ。

わが国の政権を担うということは、それが最も問われることなのである。

 

両政権が誕生したいきさつはネットを見ればすぐにわかるが、自民党など旧来の与党や政権の内輪もめと権力闘争の結果であり、嫉妬と憎悪、足の引っ張り合いなど、ホトホトあきれ果てる内容が語られている。いったい誰のための政治なのか、なんのための国会議員か。

情けないことに、それは今の国会議員の在り様と全く変わりない。相変わらずの国対政治であり、なれ合い政治である。

 

彼らが政権に就いたとき、国のトップとして本来守るべき大切な存在を忘れてしまっていた。その意識は薄れていたと思わざるを得ないのだ。

そのために、国の守りは縮小していった。

それでも国が保てたのはわが国が有する資質、すなわち国民の民度と意思の賜物であろう。それこそ守るべき国の“魂”であり、冒すべからざる宝なのである。だがそれだけではない。

 

社会党と民主党。彼らは日本をどのように導こうとしたのだろうか。

彼らの党是とは、どのようなものか。何を一番に考えていたのだろうか。

結論から言えば、彼らが政権に座ったそのときに、日本の弱体化は決定した。

『カルマ』の目にも、それは明らかに映っただろう。今がチャンスだと。

 

いや正確に言えば、その前政権を含め、当時の国会議員と各党のだらしなさが極まったときから、日本の守るべきものが守られなくなっていった。

『カルマ』は時期を探っていたといえるだろう。そして最大に弱くなる時を待った。

いったい‘何’を守る、というのだろうか。

 

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