2020年8月14日

第6回5部【希望の章】武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍

長い間お待たせした。

さて、いよいよ最終章である。

ここから大切なことをお伝えしたいと思う。

 

その前に確認しておきたいことがある。“心”と“魂”と「霊界」との関わりである。

詳らかにいえば「霊界」の前に「冥界」がある。この区別は厳格で歴然としており、「霊界」よりも「冥界」は明らかに低位の世界である。これについてはいずれお話ししたい。この章では煩雑さを避けるために、なじみのある言葉としての「霊界」に統一する。

 

まず一番目。人は“心”とその奥に『霊性』を備えた“魂”を持つ、高度な知的生命体である。

 

“心”も“魂”も、目に見えない大きな存在であるが、肉体にかかわる表面的な意識は直接“心”に反映され、その奥にあって『霊性』をつかさどる“魂”と根っ子の部分で強くつながっている。両者は不可分である、といってよい。

二番目に、肉体は寿命が尽きると消滅するが、“心”や“魂”は決してそうではないということ。“心”が消滅しないのは、存在する場所が肉体だけではないからである。すなわち“魂”が表層へ現れる姿の一端が“心”なのであり、“魂”とともに幽体となって「霊界」に存在する。

 

「霊界」とは死後、幽体が行くべきところである。

三番目。生命の灯が消える刹那において、死のきっかけとなった「苦」の思いは“心”と“魂”に強く刻まれて残る。死者とならざるを得なかった情況に不審な点があり、“心”や“魂”がそれに納得しないときにはその場を容易に離れることができない。この世に対する強烈な執着が生じてしまうのである。

 

もちろん非常に悪い執着である。そのとき幽体はこの世とあの世の境目(仏教では「中有界」という。三途の川の岸辺。絶対に浮うかばれない場所である)に存在し続ける。「霊界」へ行けないのだ。不審な点とは特に自殺や他殺、それに事故死をいう。おおむね畳やベッドの上で死ねない運命を持つのである。

 

四番目。三番目のように、死者が「苦」を受ける原因となったあらゆる事象や人物に対して強い執着を持ったままである場合、死後もその「苦」によって長い間苦しみ続けることになる。それは負の霊的エネルギー(負の念波)となり、その原因になった者や縁者に強く悪影響をもたらす。理不尽な死や、耐え難い死ほど強烈な負の霊的エネルギー(負の念波)となる。さらに、それは死者の子孫にも悪い影響を及ぼすようになる。

 

五番目。負の霊的エネルギーは同類が集まり同調しやすい。特定の方向へ向かうエネルギーは集まりやすい。ベクトルが同じ方向を向いているからだ。

 

特定の方向とは、特定の人物や特定の場所、地域、さらには国である。たとえば独裁者やその一族がそうであるが、不幸なことに歴史上にはこのような独裁者や国が少なからずあったのである。現在でもそのような体制の国がある。霊性がなければ何も見えず、何も理解できず、やりたい放題になる。(霊性がなければ、というのは語弊のある表現だが、ほぼ無いに等しいという意味である。)

 

六番目。死者のもたらす負の霊的エネルギーはターゲットとなる人物の“肉体”や“心”、また“魂”だけでなく、その人物に関わるあらゆる環境に悪く影響するだろう。その人物の家系を傷つけるし、運気を奪い、マイナスの方向へと導く。家の運気の悪化はそこに生まれる人にとってさらに深刻である。

 

負の霊的エネルギーは『カルマ』そのものであるが、これに大小がある。

 

群をなし、巨大化するに従い『破滅のカルマ』と化す。

七番目。人の“心”は、高度な知的生命体としての特徴をもっている。すなわち、(A)善悪を判断し、行動を制御し、現状を把握し、未来を予測し、過去を顧み、理性を主る。

 

これらと逆向きの反応、すなわち(B)欲得に敏感で、利己を優先させ、他を顧みず、悪意に基づき、小賢しく振る舞うのは、高度の知的生命体というよりは動物的であり衝動的である。それは(A)よりも明らかに劣るものであり下位なものである。

八番目。『カルマ』が持つ負の霊的エネルギーの影響を受けやすいのも後者(B)である。それは欲望に乗せられやすく、自ら乗りやすい気質(素因)を持つのである。それらの気質は運命の因子(“因縁”という)からくるもので、主に悪い運命をもたらすものである。このことは以前も述べたので参照してほしい。

 

『カルマ』の甘いささやきに触発されて安易に行動を起こすのは、もともとそういう運命の因縁をもっているからである。その多くは悪い行動なのだから、当然その結果も悪いものとなる。

すなわち『カルマ』のささやきを受けやすい気質、素因、因縁があるということである。人によって運命が違うように気質、素因、因縁も違うのである。

 

同じように土地や地域、そして国も運命の因子“因縁”を持つ。これらはその国において起こった歴史によってその成り立ちが決まっていく。大量死が起こった原因は、国の新たな運命を引き起こす要因となる。国の命運である。

では『カルマ』の悪気に満ちたささやきが起こったとき、それなりの悪因縁をもってしてそのような行動を起こしやすいのはなぜだろうか。そんな気分にさせられても、理性が働けばそのようなばかげた行動を起こすはずはないと思うのだが、いかがだろうか?

 

我われ人は、だれでも良いところと悪いところがもちろんあるが、現実的な立ち位置で互いに補い、調節し合い、協力し、協調しならが世間に目配りして過ごしているはずである。

ただ単に悪い“因縁”があるからといって、あるいは『カルマ』のささやきがあったからといって、おかしな行動に出るのはどうしてか?

 

理由は「道理が分からない無知」があるからだ。

例えばある人物が、ある‘些細なこと’で怒りを生じたとしよう。その‘些細なこと’は本当につまらないことであったとしても、そのことが原因となって引き起こされた怒りは単純なものの度合いを越え、とてつもない弾みがついてしまうことがある。

 

普段は穏やかなその人物が何でまたそのような怒りを発するような場面に出くわしたのだろうか。

そしてなんでまた魔が差してしまうような心境に至ったのか?

それはまさしく「魔が差した」としかいいようがなく、その人物に関わる『カルマ』が耳元でささやいたと言えるだろう。その人物が『カルマ』を呼び込んでしまったともいえる。もちろんそれを引き起こす“因縁”を彼は持っていたのだ。だから結局“因縁”が発現してしまったといってよい。

 

その人物に関わる『カルマ』とは、その人物またはその家系が犯した悪業の結果生じた、決して浮かばれることがない霊魂の存在のことである。

そして彼は「道理が分からない無知」があるためにおかしな行動にでてしまったのだ。これは本当によくみられるパターンである。

 

その人物がどうして特定の“因縁”を持つのか。それは決して偶然の産物ではないのである。

その辺のところは今後のコラムに委ねるとしよう。

 

しかしこの度のパンデミックのように国をまたいで世界に広がるものに関わる『カルマ』は、個人といっても単なる市民ではない。それは国を指導する側にいる人々であり、権力をもつ限られた人々である。

わが国でいえば国会議員や官僚であり、中国でいえば共産党指導者たちに他ならない。あるいは共産党そのものともいえるだろう。

 

社会の上層部に『カルマ』は影響を及ぼしやすい。『カルマ』そのものが大量の怨念から成る場合はなおさらである。『カルマ』の負の霊的エネルギーは国の指導層を狙う。

悪因縁で覆いつくされた国の中枢にいる者たちが「道理の分からない無知」であるかぎり、『カルマ』の甘いささやきは、疑念や不信、偽りの情報から湧き起こる妄想、裏切り、自分勝手な理屈を生みやすく、物事を正確に把握できない状況に陥いらせてしまう。

 

『カルマ』のささやきは彼らの頭脳に達し、その思考は悪因縁に満ちた“心”を動かすのである。

「道理が分からない無知」がある限り、“心”のままに『カルマ』のささやきは実行に移される。

この場合の道理とは、「真実」であり「真理」のことである。

 

それは「嘘いつわりのない姿であり、疑いようのない因果のこと」である。それを理解できないでいる状態、それが「道理が分からない無知」である。

そのときの脳は高度な知性や霊性を備えたものではない。

 

単に感覚で捉えたままを鵜呑みにした状態である。それはまさしく本能で動く爬虫類、あるいは馬や牛の脳であり、そこへ多少進化した人の新皮質が少し加わっただけなのである。だから、その脳は自らがやっていることの本当の意味が分からない。

 

それがもたらす結果も、予測もすることはない。そのような概念さえ持ち合わせない。考えることも出来ないに違いない。

どういう意味だろうか。

 

それが真実の姿なのか、それとも虚仮の姿なのかが分からないのである。

目が開いているようでも、その人物が見ているものの姿とその世界は偽りに他ならない。偽物を本物と見誤って認識しているのだ。求めているものが偽物ならば、そこに真理があるはずもない。

何が問題なのか?

 

「霊性」の欠如である。だから虚仮の世界を本物と見誤るのである。

以前ぼくは「“心”は裏の世界と通じている」と述べた。そのことはもうご理解いただけたと思う。

重要なことは、肉体があればそれだけで“心が存在する”というわけではない、ということだ。

人が霊格を持ち、霊性を有する存在だから“心”が備わるのである。

高度な知的生命体とは“魂”を持ち、それが織りなすところの霊体を持つ。

霊体は“魂”を核とした霊格を備える『生身の生命体』といえるものである。

すなわち人であるということは、霊性の場を持つ存在なのである。

少なくとも霊性が宿る器をすでに持っているのである。

人である限り、どんな人も例外はない。

どんな信条の持ち主でも、何を信仰していても、それは関係ない。

それは脳を介し表面的に“心”として表出することができる。

“心”はその在り様において霊性を映す鏡となる。

“心”を磨けば霊性も輝くだろう。

だから、おわかりだろうか。

『カルマ』を解消する手段は‘心’にある。

これまでの話でお分かりのように、人は死んで肉体が滅んでもすべてが消滅するわけではない。

“魂”は完全に永遠に続くものかと言われれば、ある特殊な方法によって昇華していくこともできる。

輪廻の輪から脱する方法である。“魂”が真に救われるためには究極的にはその方法しかない。

それは釈迦の成仏法によるものである。

高度な修行の後に得られる究極の法であり、体得すれば自らだけでなく、他者や死者さえ救うことができる。それについてはまた別の機会に触れたいと思う。

 

結論を言おう。

祈りによって『カルマ』を解消することは可能である。

“心”を使い、“心”を込めて祈る。心を磨く、切磋琢磨することにより『カルマ』の勢いや力を変えることができる。それはまた、1人より2人、3人と、祈る者の数が増えれば増えるほどよい。

 

だがしかし、それは単に心の使い方、祈りの方法など、テクニックの問題では決してない。

霊性を高め、霊格(波動)を清めていくことでこそ、それは可能になる。

 「祈りによって人を動かし、祈りによって神を動かし、祈りによって天地を動かす・・・」

これはわが国の仏教教団である阿含宗の管長、桐山靖雄大僧正の言葉である。

 

祈りによってしか『カルマ』を動かすことは出来ない、ともいえるだろう。

逆に祈りにはその力があるということだ。

人が真心から一心に祈ることこそ究極の救済となる。

何度も言うように“心”が重要なカギになる。

『破滅のカルマ』を解消するには純粋で強い祈りが必要だからである。

それは単なる祈りではなく、全く別次元の高度のメソッドが必要ともいえる。

 

古来、多くの修行者が命を賭して求めたものでもあり、人にはそれを求めてやまない性質が備わっている。命懸けで道を求めて生涯を駆け抜けていく、そのような人々が昔からいるのである。

だがもちろん、言うまでもなく、それは「人」だからできることでもある。

「人」だからこそ、その可能性があるということになる。

その「人」とは、ごく一般の我われのことなのである。

だから人は尊いのだ。

 

高度な知的生命体であるがゆえ、また“魂”という霊格を持ち、霊性を培うがゆえに備わる重要な特性である。しかしこの特性を知らずにいる人は非常に多い。

では、どうやって祈りを『カルマ』に届けるのだろうか。

ぼくたちにそれができるのだろうか?

ぼくたちの身体は生きている限り“心”を肉体に引き付けている。

要するに、“魂”を繋ぎ留めていることになる。

 

ここのところは非常に重要であり、“魂”が“心”を通じていろんなことを経験していることになる。

それは生きているときにこそ使うことができるのである。だから生きているいま、この時を大切にせねばならないのだ。死を迎えた瞬間にすべては宙ぶらりんとなり、何にもできないことになる。少なくとも今やるべきことにおいて、その課題は全て来世に持ち越しとなる。

 

そのときは再び一から出直しであり、前世の記憶は封印される。ぼくたちのような一般の凡夫は、輪廻の輪から脱出することはまず不可能と思ってよい。それを求めて必死に努力するが最終的にはそうならない。凡夫の悲しさであるが、これを仏教の用語で分断生死(ぶんだんしょうじ)という。

 

そのことはさて置き、実際、命を享けて生きている今このときに、ぼくたちはこの世界の中で現実を知り、いろんな経験をする(苦)。それはさまざまな苦難や試練を受けることであり、乗り越えることでもある(集)。

その中において善悪を知り、因果の真理を知り(滅)、人としての誇りを保ち、道を求めて辿り着くべきところへ生涯をかけて進んでいく(道)。

 

人は普通、そんな理屈めいたことなど気にせず、無意識のうちにそれらをやってのける。それが人生だとごく当たり前に対処して乗り越えようとする。それらの困難や苦難に前向きに取り組む人もいるし、避ける傾向の人もいる。ついていけない人だっているだろう。

 

もちろん自らの努力だけでは無理なことはこの世にはたくさんある。

 

どのようにして祈りを強化し、“心”を使って高次元の場へ移していくのか、ということもその一つに違いない。しかし、そこには大きな力のサポートが必要である。それなしには到底達成することができないと言ってもよい。

要するに高次元の大きな力を借りる、ということだ。

日本にはそれができる素地があるのだ。

わが国を守るべき理由はそこにある、といってよい。

 

人はみな“心”を持つのであるから、祈りを強化することにより『カルマ』を解消するだけの素地は持っているのである。その能力を高めるための努力はもちろん必要だ。だが、努力だけでは限界があるのだ。

それを飛躍させる大きな力が必要だ。霊的パワーともいってよいだろう。

長くなってしまったので結論を言おう。

真の大きな力、霊的パワー、それがわが国に存在する。

そのことをぼくは確信している。

八百万の神々といわれるご存在、各地の天神地祇。幾多の龍神、そして龍王。

観音さまなどの目に見えない力の存在。

わが国こそがパワースポットなのである。

その力を貸していただく。それだけの能力を持つことだ。

大切なことはそれら大きな力の存在に対する真摯な気持ち、誠実な“心”である。

真実を求め、いつわりと嘘を排除し、大局に立って判断し、公正で正直な意思のもと、真心をもって世のため人のため、そして信念のために尽くすことだ。

 

“心”を鍛え“心”を養う。

 

優しそうで決して優しくはないが、無理なことではない。

霊性を取り戻すこと、そのことに依って真実の世界を見ることが出来よう。

裏の世界が見通せるならば、どうしていま、ここに『癒しの気』が登場したのか、それがうすうす理解できるかもしれない。

 

その意味で我が国について考えてみたい。

日本は特殊な国である。それは歴史的にも地政学的にもそうなのだが、裏の世界においても特殊なところといえるだろう。特殊とは特別扱いされるという意味ではない。

世界の他に比べて特殊なのだ。

わが国が世界の枢紐であると、ぼくは信じている。

 

だからわが国を守ることは日本人のみならず世界の人々を救うことの基本となる。

従って、改めて知っておくべきことは、そのターゲットがわが国『日本』とえることだ。

何のターゲットか?もちろん『カルマ』あるいは『破滅のカルマ』の向く矛先のことである。

わが国が『カルマ』の世界戦略にとってキーポイントならば、『破滅のカルマ』は悪の巨大な魔王と化して我が国を滅ぼそうとするだろう。

 

かつてもそうであったがいま、再びそれが行われつつあるのである。

わが国が中国に侵食されつつあることを考えてみたことがあるだろうか。

現実に起こっていることだが、そのことを知らない人や真剣に考えない人は実に多い。

完全に偏ったマスコミ報道やオールドメディアが作ったテレビや新聞に洗脳されているからだ。

‘真実’を知らされていないからである。我われが直面している問題はかなり深刻なのである。

我われが解決すべき課題は多い。

それを改めて思う時、人類の行く末に多くの不安を感じるのは自分だけではないと思う。

みなで議論し地道な努力することはもちろんのこと、できるだけ霊性を顕かにし高めていくことを勧めたい。我が国を失わないためにも。

そのためにぼくもまた、最大跟の努力を尽くしたいと思っている。

 

おわりに、本コラム《武漢ウイルス・新型コロナウイルス禍》執筆に際し、参考にさせていただいた方々のお言葉に対し心からの感謝を申し述べたいと思います。

参議院議員 青山繁晴氏、阿含宗管長 桐山靖雄大僧正猊下

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